宵闇の契り〜桃華異聞〜

 男妓――いわゆる男娼の莉英が一大遊廓である桃華郷を出て既に三日。長距離の移動には慣れていないため、今や足の裏の皮が剥け、まめができてしまっていた。大好きな大我に落籍され、新生活を迎えるための楽しい旅であっても、なかなか歩が進まない。
「莉英、次の宿場で休もう」
「私はもっと先に進めます」
 莉英がつんと澄ました顔つきで言うと、大我は「だめだ」と強硬に首を振った。
「それ以上足が酷くなって、おまえを背負う羽目になったら、いくら俺でも半日と保たない。絶対に次で泊まるぞ」
「では、野宿にしましょう」
「野宿?」
「私たちは貧乏なんです。宿を取るなどという贅沢をしていては、お金が保ちません」
 薬代でほとんどの金を使い果たしてしまった莉英と、莉英を落籍するために有り金を叩いてしまった大我と。確かに仲間から多少の餞別はもらったが、大事に取っておかなくてはいけない。
「おまえみたいな美人を連れて野宿したら、野盗に襲われても文句は言えないぞ。安全は金で買えるんだ」
「美人って」
「さ、ゆっくり歩いていくぞ」
 この傷は一日では治らないだろうから、宿を取って休むのなんて、それこそ勿体ない。なのに、大我は莉英が申し訳なくなるくらいに優しい。
「あそこにしよう」
 大我は手っ取り早く宿を決めると、主人と交渉してそこに部屋を取ってしまう。それから、莉英の足の薬を買ってくると言い残して、出ていってしまった。
 宿の一階は食堂兼居酒屋になっており、莉英は片隅に腰を下ろす。食事が旨い店らしく、席はおおかた埋まっていた。
「おや、莉英じゃないか」
 大我のために壺酒と羹を頼んで待っていると、声をかけてくるものがあった。
「これは泊様」
 慌てて立ち上がった莉英が頭を下げると、泊はにやりと笑う。莉英がまだ楼に勤めている頃、足繁く通った客だ。
「おまえが落籍されたという噂は本当だったのだな」
「はい」
「相手はどこの大金持ちだ?」
「大我です。ご存じありませんか?」
「大我? 用心棒の?」
 伯は驚いたのか、目を丸くした。
「あいつ、そんな金を貯めていたのか」
「はい」
 泊は矯めつ眇めつして莉英を値踏みするように眺めた。
「なあ、莉英。おまえの寝技は素晴らしかった。今宵どうじゃ、小遣稼ぎに」
 かっと頬が熱くなったが、わざわざ宿を取ったのにここでことを荒立てては、大我の迷惑になってしまう。自分は元男妓なのだから、生活していく以上はこういう言いがかりをつけられるのは目に見えていた。
「こいつ、男妓なのか?」
 すかさず声をかけてきたのは、別の卓で食事をしていた男だった。もう酔っているらしく顔は真っ赤だ。
「ああ、窯子から始まって、東昇閭一の売れっ子だ」
「それじゃ、さぞやすごい技を持ってるんだろうな」
「もう舐めたり咥えたり、そりゃすごかったんだぜ。さすがに金がかかりすぎるってんで東昇閭には通えなかったから、俺は随分ご無沙汰だけどな」
 泊が下卑た声で喧伝するので、莉英はさすがに消え入りたい気持ちになる。男妓だった過去を恥じてはいないが、覚悟ができていなかったからだ。
「折角だから、相手をしてもらおうぜ」
「ちょうど金ならあるんだ」
「あっ」
 男の一人に腕を掴まれよろめいた弾みに、莉英は相手の胸に抱き込まれてしまう。
 急いで「嫌です」と身を捩ったが、それが相手の興をそそってしまったようだ。
「すげえ、膚が手に吸いつくみたいだ。こりゃ上玉だ」
 どうしよう。
 早く大我が戻ってきてくれないと。
「今は、大我のものです。大我の許しがなくては自由になりません」
「大我のやつ、小遣稼ぎをするつもりでおまえを落籍したんだろう。金さえ払えばやらせてくれる」
「違います!」
「そうでなけりゃ、窯子で誰にでも躰を売っていたあばずれなんざ、わざわざ欲しがるもんか」
 そんなわけがない。大我はどんなときでも、莉英が一番綺麗だと言ってくれた。顔ではなく、莉英の心を見てくれていた。
 そう反論したいのに、唇が動かない。
 悔しさに震えていたところで入り口の垂れ幕が揺れ、大我が入ってきた。
 彼は莉英を目線で捜し、途端に険しい表情になった。
「莉英、どうした!」
「大我!」
 男に腕を掴まれたままの莉英のもとに、大我が怒りの形相で近づいてくる。
「おまえら、俺の莉英に何をしてる!」
「大河、俺だ。泊を覚えてないか?」
「……泊さん」
 泊がにやにや笑って割って入ったので、大我は気勢が削がれた様子だった。
「こんなところで昔馴染みに会えたんで、折角だから今夜、相手を頼みたいって話になったんだ。あんたも小遣稼ぎにどうだい? ここの連中も、桃華郷一の売れっ子には興味津々だ」
「つまり、莉英の躰を売れと?」
「そういうことさ。あんただって、この女神様を独り占めするのはわがままってもんだろ?」
 何が女神だ、自分は男だと莉英は心中で毒づく。これが桃華郷だったら男を袖にするのも莉英次第なのに。
「莉英は俺のものだ」
 莉英を奪い返し、食堂全体に聞こえるような大声で、大我は堂々と宣告した。
「こいつが閨でどんな声で啼くか、これから先は俺だけが知っていればいい。どうしてもお裾分けしてほしいって言うなら、あんたたちにはここで俺が莉英を抱くところを見せてやる」
「た、大我!?」
「莉英がどれだけ感じやすくていい声で啼くか、あんたらは見たいんだろ?」
 大我は莉英の細腰を抱き締め、いやらしく尻を揉んでくる。
「あっ、大我……だめ……嫌……」
 息を弾ませて身を捩った莉英を見守っていた泊が、不意に「けっ」と声を上げた。
「馬鹿馬鹿しい。莉英はあの気位の高さがよかったんだ。恋人みたいに男に媚びて甘ったれる莉英なんて、興ざめだ。そんな娼婦、どこでだって買えるぜ」
 しらけた見物客からそうだそうだと野次が飛び、「さっさとやめちまえ」という声がかけられる。
「なんだ、あまのじゃくだな」
 くすっと笑った大我は莉英の前に腰を下ろし、何ごともなかったように酒を頼む。食堂には先ほどまでの喧噪が戻ってきた。

「大我、本当に見世物にするつもりだったんですか?」
 食事を終え、部屋に戻った莉英を牀榻に座らせ、大我は足の手当をしてくれていた。莉英の前に跪いた彼は莉英の素朴な質問を聞き、ぷっと吹き出す。
「そんなわけないだろ」
「だって」
「泊様はいつも、おまえのつんとしたところがいいと話してたんだ。おまえが俺にめろめろで可愛いところを見せたら、すぐにその気をなくすのはわかってた」
「私はあなたにめろめろなんかじゃ」
「ないのか?」
「…………ろです」
「聞こえない」
 大我に意地悪く言い換えされ、莉英は彼の二の腕をぎゅっと抓った。
「いて! 痛いって、莉英」
「わかっているなら、わざと聞かないでください」
「わかっていても言わせたい男心、おまえはちっとも理解できてないな」
「理解できなくても、そばに置いてくれるでしょう?」
 莉英がそう言ってそっぽを向くと、大我がくすりと笑う。
「まったく……おまえはそういうところも含めて、本当に可愛いやつだよ」
 立ち上がった大我は莉英の顎を掴んで強引に向きを変え、身を屈めて唇を優しく啄んだ。

END


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