Natural Step その1

 本日は午後五時に穂高(ほだか)のマンションで――その約束だったが、インターフォンを鳴らしても穂高櫂(かい)の返答はない。
 桜井透也(さくらいとうや)は訝しげに眉をひそめ、もう一度インターフォンのパネルを操作する。しかし、何度試しても同じことだった。
 おかしいと思って今度は携帯電話を取り出すと、会社を出るときまではなかった、穂高からのメッセージが届いている。
 ――部屋まで入ってきてくれ。
 どうやら電車での移動中に届いていたらしく、気づかなかった。
 穂高のマンションの警備は最先端で、ドアロックの解錠は、住人はあらかじめ指紋を登録しておき、そうでない訪問者はエントランスのインターフォンで住人を呼び出すことになっている。このマンションを頻繁に訪れる透也は、システムに指紋を登録している。だが、基本的に透也は、このマンションに足を踏み入れるときは、穂高の許可を求めて解錠してもらうことにしている。このマンションは穂高のプライベートの一部だという意識があるため、無神経に踏み荒らしたくはなかった。だから透也は、渡されている合い鍵も滅多に使ったことがない。
 穂高は編集者である透也にとっては担当作家の一人で、当代を代表する人気ミステリー作家でもある。最近はその作風をより普遍的なものへと変えつつあり、新たな読者層の獲得に通じている。気まぐれでいささかエキセントリックな彼に、自分との恋愛が多少なりとも影響を与えたはずだ。透也は密かに自負していた。
 エレベータを四十階で下りた透也は、穂高の自宅である奥まった部屋を目指す。一度だけインターフォンのベルを鳴らしたものの、今回返答がないのは予想の範疇(はんちゅう)だったため、合い鍵を使って玄関を開けた。
「先生、桜井です」
 玄関で呼びかけてみたが、返答はない。
「先生」
 もう一度室内に向かって声をかけたが、やはり答えはなかった。
 何か手の放せない用事でも、あるのだろうか。
 訝(いぶか)しく思いつつも、透也には思い当たるところがない。今日は著者校正を取りに来たのだが、もう完璧にできていると、今朝方受け取ったメールには書いてあった。
 気を取り直した透也は「失礼します」と、明らかに無人のリビングルームへ向かって声をかけた。室内は、気味が悪くなるほどの静寂に満ちている。
「穂高先生」
 ノックと呼びかけを交互に交えつつ、まずは一番近くにあるキッチンの扉を開ける。しかし、穂高の姿はないうえに、使われた形跡はなく、シンクも乾ききっている。今日は、通いの家政婦は休みなのだろうか。
 書斎、ビリヤード台の置いてあるパーティルーム、そしてバスルーム。そのいずれにも、人気はまったくなかった。
 留守なのだろうか。
 もしかしたら、葉山の別邸で会おうという約束を、自分がこのマンションと聞き間違えてしまったとか?
 しかし、いくらなんでも自分の耳はそこまで悪くないし、葉山と浜離宮では決定的に字数と語感が違う。
「先生!」
 もう一度声を張り上げながら、螺旋階段を上がって穂高のプライベートフロアである上階へと向かう。客用の寝室とバスルームを覗いたところで、透也は意を決して主寝室の扉をノックした。
 向こうから何か声が聞こえた気がして、もう一度「失礼します」と告げてから透也は扉を開けた。
 キングサイズのダブルベッドには、パジャマを着た穂高が神妙な顔で横たわっていた。
「先生……勝手に上がり込んでしまって、申し訳ありません。それよりも、あの、どうなさったんですか?」
「これが昼寝しているように見えるか?」
 いつもと言っていることはさして変わらなかったが、声に張りがない。
「昼寝という時間ではないと思います。具合が悪いんですか?」
「風邪のようだ。家政婦にうつされたらしい」
 穂高は掠(かす)れた声で告げると、透也に向かってぎこちない微笑を作った。
「著者校正は、書斎の机の上に置いてある。持って帰ってくれないか」
「あとで確認します。――よろしいですか?」
 有無を言わせることなく、透也は穂高の額に自分の手を乗せる。
「熱っ」
 思わずそう声を上げてしまうほどに額は熱く、その事実に透也は仰天した。
 穂高のことだから、「具合が悪い
」という表現の基準は、他人に比べて猛烈に症状が重いか、もしくは笑えるほどに軽いかのどちらかだろうと思ったが、前者であることはすぐに判明した。
「先生、すごい熱ですよ!」
「かもしれないな」
「体温計は? 測ったんですか?」
「まだだ」
 確か、救急箱はラバトリーに置かれていたはずだ。以前、指を切ったときに絆創膏(ばんそうこう)をもらったことがある。
 透也は急ぎ足でラバトリーへ向かい、戸棚の中からプラスチック製の救急箱を見つけた。
 開けてみると、中身はおざなりのものしか準備されていなかった。消毒薬にガーゼ、絆創膏、それから体温計と胃薬。風邪薬はないのかと箱をひっくり返したが、頭痛薬らしきものが一瓶、出てきただけだ。
 ということは、買い置きしていた風邪薬は飲みきってしまったに違いない。
 本当は医者に連れて行ったほうがいいかもしれないが、あの様子では起き上がるのも一苦労だろう。まずは熱を測って様子をみたほうがいい。
 静かな足取りで上階へ戻ると、ベッドに潜り込んだ穂高の顔は完全に血の気を失っており、生気がない。それでいて呼吸は荒く、ひどく苦しげだった。
「熱、測ってもいいですか?」
 そう言った透也が上掛けを剥いで穂高のパジャマにてをかけようとすると、穂高は熱っぽい手で透也の手を掴んでそれを押しとどめた。
「それくらい、自分でできる」
「でも……」
「大丈夫だ」
 それが大丈夫に見えないから心配しているのだが、穂高には穂高なりの矜持があるのだろう。
 アナクロな体温計を手渡されて、穂高はむっつりとした顔でそれを脇の下に挟む。透也は三分間を測るために、自分の腕時計に視線を落とした。
「先生、大丈夫ですか?」
「君の目からそう見えるなら、平気だろう」
 いや、絶対に見えない――その言葉を透也は喉の奥に呑み込む。言ったら最後、症状がもっと酷くなるような気がした。
 沈黙ののちに三分が経過し、透也は穂高の手から体温計を受け取った。
「――三十九度九分、かなりありますね。起きられるようでしたら、病院に行かれたほうがいいと思うんですが……」
「悪いが、それはちょっと無理だな」
 穂高は苦しげに口を開いた。
「そうみたいですね。お腹は空いていませんか? 何か喉越しのいいものを買ってきます」
「腹は、あまり……」
「わかりました。普段、風邪薬は何を飲んでますか?」
「飲んでない」
「え? どうして……?」
 意外な返答に、透也は驚いてそう問い返した。
「特に必要なかったからだ」
「先生、風邪を引いたことはないんですか?」
「あまり覚えがないな」
 これは予想外だった。
 穂高は透也よりはよほど逞しいとはいえ、どこかに神経質そうな線の細さも残している。だから、体調を崩したり風邪を引くことがあるだろうと勝手ながら思い込んでいた。
 そう言われてみれば、穂高が体調を崩したところは見たことがない。透也のほうが、寝込んだり風邪を引いたりと、しょっちゅうトラブルに見舞われている。そういう自己管理能力も、穂高の持って生まれた才能の一つなのかもしれない。
「先生、薬のアレルギーはありますか?」
「いや、覚えがない」
「わかりました」
 ともあれ、穂高の風邪薬と何かしら食べ物を調達しに行こう。透也はそう心に決めて、財布を背広のポケットに押し込んだ。

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